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広告手帖

TCC×日経広告手帖onWEB 特別企画
コピーライターの仕事~土屋耕一さん・梶祐輔さん・眞木準さんを偲んで
コーヒー&コピー

2009年12月16日(水)19時~ 於;TCCクラブハウス大会議室
(パネリスト)鈴木康之氏、岩崎俊一氏、柴田常文氏
(司会進行)小野田隆雄氏

長年広告クリエーティブ界で活躍された土屋耕一さん・梶祐輔さん・眞木準さんが、2009年に相次いで亡くなられました。クリエーティブ業界のみならず、広告主や媒体社にとっても非常に残念な出来事でした。日経広告手帖onWEBでは、お三方のエピソードや作品を振り返りながら、これからのコピーライターの仕事を考えていきたいという思いから、東京コピーライターズクラブ(TCC)の協力のもと2009年12月16日(水)に、座談会「コピーライターの仕事~土屋耕一さん・梶祐輔さん・眞木準さんを偲んで」を開催しました。本稿では、その模様をご紹介します。

『粋なライフスタイル』が作品に表れていた土屋さん


小野田隆雄さん

小野田

私が資生堂に入ってコピーを書いていた頃、土屋さんはすでにフリーランスでしたが、資生堂OBなのでとんでもない大先輩が身近にいるというわけですね。ともかく「あの人に勝たなきゃどうにもならないんだ」と思いつつ、とうとう勝てないままだったんです。

岩   崎

僕は文章を書くのがそこそこ好きで、大学を出た時にたまたま紹介してもらった仕事がコピーライターだったんです。就職がなかなか決まらなかったんですが「コピーライターという仕事がこの世にあるぞ」と言われて、「そういう仕事で飯を食っていけるのか」と思い、すごく喜びました。ゼミの先生からの強力なコネで、大阪の小さな広告代理店に無理やり押し込んでもらったんです。そういう状態で入ったものですから、この業界の事情がまったく分からない状態でした。あるとき、先輩のカメラマンに『コピー年鑑』の存在を教えてもらいました。もうびっくりするような華やかな仕事がそこに溢れ返っているんですよね。「うわー、コピーライターってこういうことをやっているんだ」というのが初めて分かり、ものすごいショックを受けました。


小野田

鈴木さんは、土屋さんとの思い出はいかがですか?

鈴   木

土屋さんとは、実は仕事でご一緒したことが一度もないんです。要するに、相手にしてくれなかったんですね。遠くから眺めていただけですが、割合、遊ぶほうでご一緒させてもらいました。当時、「AWAの会」というのがありました。TCCの入会年度別の会のハシリです。「アドバタイジング・ライターズ・アソシエーション」というすごい名前なんですけど、単に飲むだけの会です。

小野田

ああ、それで“泡”(AWA)なんですね(笑)。



鈴木康之さん

鈴   木

はい。30人ぐらいで毎月集まって、勉強会と称し、ほとんど酒を飲んでいました。その会が発展していって色々遊んだんですが、「あわら版」という15段の新聞を作りました。そこにみんなで寄せ書きをして、TCC会員やスポンサーにも配ったりしていました。僕のコーナーで「わし、社長。」というシリーズを書いていたんですよ(笑)。デザイナーを抱えて会社を始めて、税法上、社長になった頃で、「秘書に肩をもませたりしちゃって」なんて社長の権限を面白おかしく書いていたストーリーが5、6回続いて、みんなが喜んで読んでくれて、評判になってしまったんです。その真っ最中に、なんと「おれ、ゴリラ。」というキャッチフレーズが世に出てきたんです。しかも、それを書いたのが土屋さんだというので、またびっくりしたんです。その頃「『おれ、ゴリラ。』の原点は、『わし、社長。』だよ」という噂が聞こえてはいたんです。まさかそんなことはないだろうと思っていましたが、あるパーティで土屋さんが例の眼鏡越しに僕の顔を見て、妙にニターッと笑ってくれたんです。思えばその日からです、土屋さんが「鈴木君」とか、「鈴木さん」ではなくて「ヤスさん」と呼んでくれるおつきあいが始まったのは。


岩   崎

土屋さんの伊勢丹の仕事をつぶさに見ると、非常に大人っぽくて、洒脱なんですよね。コピーって、ただクライアントが言うことを代弁するということだけではなくて、非常に大きな表現の世界があって、遊びもそこにあり、その人の人となりみたいなものも出てくるんだということが初めて分かり、非常に驚いたことを覚えています。土屋さんはそういうショックを受けた人ですので、東京へ出て審査員をやったときに、初めて近くに行くと、本当に震えるような思いでした。

『バランス良く書く』職人技を持っていた梶さん

小野田

梶さんは、私が新人賞を頂いたときに、新人賞の作品の評価を書いてくださったんです。忘れもしないんですが、「今年新人賞になった人たちの中で、客観的にものを描写していたのがこの男だ」と言ってくれたことがあって、とてもうれしかったのを覚えています。

鈴   木

僕が日本デザインセンターに入社したのは48年前で、その時24歳でした。コピー部は総勢11人で3班に分かれていて、梶さん、西尾忠久さん、蟻田善造さんがチーフで、私は西尾さんの下でした。当時から3人のチーフはもう怖くて仕方がありませんでした。怖いというのは、「態度が怖い」というのではなくて、「コピーをあっという間に書くのを見るのが怖い」という意味です。私が書いたものを直すスピードもすごい。今で言うと、20年目ぐらいのキャリアの人がやるコピーライティングを30代そこそこの人達がやっていたんですね。すごいなと思います。梶さんは、ボディーコピーを書くのがデザインセンターで1番うまかったんです。私があるときにデザイナーの田中一光さんにコピーを持っていったら、「君のコピーはちょっと固まっちゃっていて困るな」ということを言われました。何のことかというと、漢字の新発売とか性能向上といった漢字熟語の途中で改行してはいけないというコピーの作法で書こうとすると、ひらがなの送りや句読点で調整しなくちゃならない。そうすると行の上下に漢字熟語が来ることになる。それが数行並ぶとその部分が黒くなると言うんです。当時のデザイナーたちは、ボディーコピーを“グレイマス”という言い方をしていましたが、「きれいなグレイマスを作ってくれ」「梶さんを見習って勉強しろ」と言われました。梶さんのものを見たら、確かにバランスがいいんです。漢字の隣の行に漢字が来ないようにバランスがとれているきれいなグレイマスだったんです。しかも、梶さんは原稿用紙に1回も書かないんです。いきなりレイアウト用紙の上へ、「トヨタ車は」と書くんです。それで、途中で「うーん」と言いながら残りのマス目を数えて、また書いていくんですね。当時はコピーライターというのはデザイナーの下請けでしたから、「何字何行で書け」と言われてしまうんです。キャッチフレーズまで「1行目が7文字で、2行目が10文字」というように指定されてしまうんです。それを見事にはめ込んでいく梶さんのような職人芸が喜ばれました。梶さんのコピー能力の高さというのは、そういうマス目埋めを、“いきなりじかに書き、バランス良く書くこと”だったと思います。頭の中にマス目があったのではないかという印象です。

岩   崎

大阪の広告代理店時代に梶さんの講演を聴く機会がありました。非常に高名な方だということだけしか知らずに参加したのですが、その講演で定年退職のことを『定期券とさよならした日』と表現したコピーを例に出して、「僕はこういうのはあんまり好きじゃないんだ」という話をされましたのを覚えています。「レトリックが過剰なものをお嫌いなのか」と、そのときに思いました。
東京へ出てきた後では、個人的にも言葉を交わさせていただくこともありましたが、とてもシャイな方だなという印象を持ちました。

コピーの魅力を体現してくれた眞木さん

小野田

続いて眞木さんの話ですが、昔、秋山晶さんが軸になって、サントリーのコピー『何も足さない、何も引かない』を書いた西村嘉禮さんや、国鉄(当時)のDiscover Japanキャンペーンの中心としてコピーを書いていた長沢岳夫さんと年1回温泉地に酒を飲みに行っていました。そのときに、眞木さんも頻繁に来てくださったのを覚えています。山梨の方角から富士山を見ながら酒を飲んで、“R&B”の話をしていました。“リズム・アンド・ブルース”じゃないんです。“離婚とベンツ”なんですけどね(笑)。


柴田常文さん

柴   田

「私が眞木準の1番弟子です。」と言うと、宣伝会議のコピー講座の生徒がみんな「うそ!」と言うんです(笑)。眞木さんは見た目も若かったし、ちゃんと髪を染めているし、ずるいですね。

岩   崎

眞木さんとは同年代ですが、「何と華麗なコピーライターが出てきたんだろう」と憧れの目で見ていた。『十歳にして愛を知った。』というのはクラブ賞でしたかね。

柴   田

僕が博報堂に入社したときは、もうスターでした。 “天下の眞木準”がキヤノンと全日空を担当することになり「弟子が欲しい」と言ったそうで、「お前、行くか?」と会社に言われました。僕がその場で「行きます」といったので、結局彼の下に7年付くことになりました。


岩   崎

全日空の『トースト娘ができあがる。』という作品に非常に感銘を受けました。シズルもあれば、過不足のない技術が非常に行き渡っていて、鮮やか。その後の『帰ったら、白いシャツ。』という沖縄のキャンペーンも強烈に覚えております。


岩崎俊一さん

柴   田

眞木さんは「来年の沖縄のキャッチフレーズを考えるから、明日から帝国ホテルに1週間缶詰になる。よろしく」と言ったまま消えてしまう。「ああ、そうですか」と言うと、「柴田君も考えてね」と必ず言うんです。
僕はチラシ、カタログなど全部やっているので、全日空のカタログは、北海道から沖縄まで十何冊ですよ。見開きでコピー1本だとすると、8ページで3本の割合ですね。いつも入稿が迫っていて、営業が催促してくるんだけど、とにかく眞木チェックを受けないと世の中に出せないので、いつも朝は喫茶店で眞木さんと待ち合わせです。だいたい朝は駄目でずっと憮然としているんですよ(笑)。そこで僕のコピーを見せるわけです。全部見せ終わって「ふーん。どれがいいの?」と言われます。「この辺はいいと思うんですが」と僕が言うと「ないね」と一言。「ないね」と言われてもね(笑)。「こっちのほうはどうでしょうか?」と言い続けると、1回でOKになるのが3本のうち1本ぐらいしかないんです。


小野田

厳しいですね。

柴   田

ボディーコピーを10回書き直してもOKが出ないんです。もう書きようがなくて呆然としていると、眞木さんがチュチュチュっと書いて、「はい、これ」と言うんです。「だったら、最初からそう書いてよ」みたいな(笑)。それが本当に修業になりました。僕の“全日空の青春三部作”というのがあるんです。『北海道マガジン』『九州マガジン』『沖縄マガジン』という76ページの『ポパイ』のようなムック本ですが、僕が編集長で取材して全部コピーを書いたんです。

小野田

すごいですね、それも。

柴   田

それをやったから、もうパンフレットは何を書いても怖くなくなりました。16ページぐらいだと余裕です。だから、皆さん、やっぱり長いものを書いて練習した方がいいですよ(笑)。本当に、そのことにはすごく感謝しています。

岩   崎

コピーというのは、本当にそのビジュアルが浮かぶように書くこと。そういうことで言うと、俳句なんかも同じだと思うんですけども、やっぱり「ビジュアルが浮かぶというのは、広告コピーの非常に大きな魅力なんだ」ということを教えられました。同年代ですが、彼の後を追い掛けるような感じでやってまいりました。

[3月25日掲載 ]

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